Dialog in the dark

tomokito2014-07-06

昨晩アルゼンチン−ベルギーを3時まで見たので、朝5時からのコスタリカ−オランダ戦には起きられなかったんだけど、朝一の母親からの「コスタリカ、頑張れ!」というメールで飛び起きる。この時間に頑張れってことはPKでしょう。そしてコスタリカが敗退。ううぅ。

日曜にしては早い時間に目が覚めてしまったので、朝から今日のカレーとサラダ作り。今日は妹家族と姉家族が我が家にやって来るので、大人用のカレーと子供用のカレーを作った。甘口カレールーを買ったのって、何年ぶりだろう。今回やって来たのは家の前の川遊びが目的。こんな都会の真ん中なのにすごく澄んでいて魚や虫もいる。ちょっとした草むらや飛び石、小さな滝なんかもあって、子どもが遊んでも大丈夫な浅くてきれいな川。一番大きな小2の甥っ子は水着を履いてきたのに、慎重に慎重を重ねる真面目な性格が前面に出て「水に浸かるのはイヤだ」と言う。年長と年中の甥っ子は濡れてもいい普段着を着ているけど、そんなことお構いなしでびっしょびしょ。4者4様で見ている私は楽しいけど、慎重派の甥っ子の母である妹は、男の子らしくびしょびしょになって欲しいのに、と嘆いていた。

夕方からは夫と一緒に初グランフロント。今日は友達も含めた4人でダイアログ・イン・ザ・ダークに行ってみたのだ。そもそも、このダイアログ・イン・ザ・ダークという言葉を聞いたのは昨日が初めてだったので、あまりそれが何かをよく分からないままに参加したのだけど、行って本当に良かった。色んな気づきがあった。

大阪の会場は積水ハウスと組んでいて、真っ暗な部屋で70分、視覚障害の方のガイドを受けながら全く見えない世界で人の家にお邪魔するという世界を体験するもの。光も何もかも本当に一切見えない中で、人んちの玄関を開け、靴を脱いでリビングにお邪魔したり、庭に出たりするのだけど、光のない世界というのはこんなにも分からないのだという感覚と、見えない世界というのはこんなにもそれ以外の感覚が研ぎ澄まされるのだという両方の感覚が同時にたくさんやって来る。色という概念よりも実は肌触りとか手触りとかがこんなに意味をなすんだという驚きや、人のぬくもりが普通以上に嬉しいという感覚や、思った以上に自分の普段の生活は見ているようで見ていないという発見や、とにかくたくさん感じることがありすぎた。最後に視覚障害のガイドの方が仰っていたこと。「見えるという世界では先に視覚で全体概念を掴んでから物事を理解していくけれど、見えない世界では自分の周りを理解し、それを積み重ねていくことで全体を理解する。」確かに、見えている世界ではまず家に入ると部屋の大きさを視覚で捉えるけれど、見えない世界では自分の周りを触り、その円を広げていって、最後に部屋の四隅を確認することで部屋の大きさを知る。見えないということは、こうした個の積み重ねであり集合体なんだ。

人間の想像には限界がある。やってみないと分からない世界がある。今日1回体験してみただけでは分からないこともたくさんあるけれど、体験や経験を積み重ねて、できるだけ人という幅を広く持てる自分でありたいと思う。