死ぬということ

tomokito2014-02-16

祖母の49日。従姉妹達もほぼ全員集合してお経を唱え、祖父母のお墓参りをして、親戚が集まって会食。少しずつ少しずつ、祖母がいないこの世界が日常になっている。

私は小さいときから「死ぬ」ということに対する虚無感が怖かった。考えることができないということがどういうことなのか想像できないことがとにかく怖かった。普通にいくと人生の半分くらいがすぎた今、死ぬこと自体はそんなに怖くないし、小さいときにとにかく怖くてたまらなかった「考えられない」という状態に対しても、死ぬということは全てがそこでストップするということだからそういうものだと割り切れるようになったし、死んだときは多分考えられない自分にすら気が付かないんだろうと思うと恐怖感は感じない。それに何よりも死んだら土にかえる。生まれてきた自然にかえるということに安心感すらある。そして、ラピュタのパズーの言葉を思い出すのだ。「土に根をおろし、風と共に生きよう。種と共に冬を越え、鳥と共に春をうたおう。どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんのかわいそうなロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ。」自然にかえっていくということ。

でも今、考えられないことに対する恐怖のかわりに、小さい頃には想像していなかった愛する人を残すことへの恐怖が募っている。そしてそれと同じくらいの強さで、愛する人に残されることの恐怖がある。死ぬこと自体に対する恐怖ではなく、死んで残す、死んで残されるという「生」に対する恐怖は、年の証なのかなんなのか。

こういうことは死んだ人とならより腹を割って話せる気がするから、今日もおばあちゃんとそんな交信をした。おばあちゃんは天国のおじいちゃんのことが恋しくなんかないし顔も見たくないと言ってたけど、残されるということについて、実際のところどうだったのか、結局今日の交信では教えてくれなかった。生に対する固執をどうやって和らげられるのか、これから少しずつおばあちゃんと話しながらヒントを得ていくつもり。