部下を持つということ

部下を持つということについて、この2年間色々と悩んできた。カンボジア時代は15人程の現地スタッフの上司でありながらこんな風に悩んだことはなかったけど、今思い返してみると、そんなことを悩まないくらい表面的にしか上司業が出来てなかったんだろう。

部下を持つということは厳しさと優しさの間を探ることなのかもしれないと思ったりする。仕事面での妥協はしない。求めた仕事はきっちりしてもらう。でも、指示した仕事をやり遂げてもらうだけでなく、その仕事を通して相手の能力をいかに引き上げて伸ばすかを考える。前者が厳しさで後者が優しさ。そして、指示した仕事に対しては厳しく接する分、きっちり仕上げてくれたときの褒めを忘れない。これも厳しさと優しさ。こうした両者の間のバランスの良いところを見極めるのが難しい。

自分だったらこんな上司の元で働きたいと思うような上司像を描いてきたつもりだったけど、理想とは程遠く、自分の機嫌で部下にあたってしまったこともあっただろうし、どこまで部下の能力を伸ばせたのかははなはだ疑問だ。自分がまだ上司を必要とするようなひよっこなのに、そんな状態で上司をしようってことに無理があるのかもしれない。それでも上司と部下の出会いも一期一会だ、なんて言葉で片付けちゃおうとするのは、やっぱりいい上司だったと思われたい私の自己満足の表れだろうか。